自閉症の息子くんと、いっしょに。(仮)

息子が自閉症&知的障害と診断されて、色々考えることが増えました。家族4人一緒に暮らしながら感じたこと、考えたこと、とりあえず色々残していこうかな、と。

事件を受けて、思うこと。

最初に、犠牲になられた19名の方々のご冥福と、傷ついた方々の一日も早い回復を、改めて心からお祈りします。

 

※今日は長いです。重いです。すみません。苦手な人はスルーしてください。

 

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あれから1週間以上が経つけれど、やっぱりどうしようもなく悔しい。悲しい。「障害者は生きる値打ちがない、無駄だ」と犯人は日頃から主張していたという。「いなくなればいい」、「役に立たない」、「安楽死させるべきだ」とも。こんなコメントを引用してキーを打つだけで指が震える。悔しくて息が詰まる。どうしてこんな勝手な、反吐が出るような言い分を振りかざす卑劣漢のせいで19人もの命が奪われなくてはいけなかったのか。26人もの人が傷を負わなくてはならなかったのか。

 

値打ちがあるとかないとか、役に立つとか立たないとか、議論するのも馬鹿馬鹿しい。大体、「役に立つ」って何だよ。値打ちの有り無しって何なんだ。役に立たなかったら生きる価値はないのか?違う。絶対に違う。どんな命だって等しく尊いはずだ。それが白々しく聞こえるなら、綺麗ごとにしか思えないと言うのならこう言い換えたっていい。「少なくともお前なんかの勝手な思い込みで一方的に踏みにじられていい命なんか、この世にただの一つだってない」と。

 

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僕たちの息子くんは自閉症スペクトラム障害知的障害を抱えている。まだ3歳(もうすぐ4歳)でこれからどのように成長してくれるかはわからないけれど、少なくとも現時点で言葉は出ないし食事は手掴み、オムツだって外れていない。障害の程度は決して軽くない。だから将来やまゆり園のような施設にお世話になることを、いつか真剣に考えなくてはならなくなる可能性は低くないし、正直に言えば今の時点で少しずつ心の準備をしはじめている。だから今回の事件は本当に人ごととは思えず胸が苦しいのだ。犠牲になられた方々、傷ついた方々に一方的にぶつけられた悪意と敵意は、いつか息子くんにぶつけられるかもしれない悪意と敵意だから。

 

息子くんは確かにちょっと重めの障害を抱えている。犯人の言う「生きる価値のない障害者」に該当するのかもしれない。だけど、だけどな、僕たちは一度だって、一瞬だって、息子くんのことを「いなければよかった」なんて思ったことはない。絶対にない。絶対にないんだ。

僕たち夫婦が、是非にと祈ったことでこの世に降り立ってくれた命だ。それが定型の枠に入らないからって、それがどうした。だからなんだ。別に綺麗ごとを言っているわけでもええかっこしいで言っているわけでもなく、否定することなんて毛の先ほども思い浮かばなかったし、それは今でも1mmも動いていない。

もちろんこれからしんどい思いをすることはたくさんあるだろう。近所から好奇の目で見られることもあるかもしれない。障害を持つ弟くんがいることで娘ちゃんがからかわれたり虐められたりしないだろうか。健常の子に較べて医療や福祉サービスを受けるために多くの費用がかかることになるのだろう。そういうことはもちろん考えた。一つ一つクリアしていくしかないけれど、心配事は尽きない。思い通りにいかずにイライラすることだってある。だけど息子くんの顔を見るたびに、やっぱり「うちに来てくれてありがとうな」って、毎日、毎日思っている。そんな大切な命を軽んじるような物言いを、僕は絶対に許すことはできないのだ。

 

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犯人の思考の一部を正当化するかの如く、動物には知的障害は存在しない、という意見もあちこちで目にした。そんな弱い個体は生き残ることができないから淘汰される、本来の自然はそうあるべき、なのだそうだ。それが科学的に正しい見解なのかどうか僕は知らない。一見もっともらしい主張にも聞こえるけれど、「健全な魂は健全な肉体に宿る」的な、歪んで誇張されたマッチョ思考が産んだ似非科学でしかない気もする。大体動物の知的障害の有無ってどうやって診断するのだろう。知能指数って人間の知能年齢を示す尺度じゃないのか。そんなに簡単に動物に適用できるのか。どうなんだ。

 

仮にその主張が正しかったからと言って、だから何なのだろう。そういう野生状態を脱して人間は社会を作ったのではないのかしらん。社会契約説だったっけ。万人の万人に対する闘争状態からの脱出、みたいな。うろ覚えだけど。

斜に構えてこの手の主張をする人は、威勢よく極端な意見を断言することでヒロイックな陶酔感を得ているのかもしれないね。俺はお前ら愚民とは違うんだよ、世の中の本当の真理を見抜いているんだよと。そうすることを好む人はいつだって一定数いるのだ。それを人は中二病とも呼ぶのだけれど。

 

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もう一つ触れておきたいことがある。幾つかのメディアに踊る、「被害者の実名を報道できないことはおかしいのではないか」との論調だ。これは本当に我慢できない。

本名も含めて被害者の人となりを詳しく報じることで事件の重大性を訴えるべきだ、とか。障害があるから遠慮して報道しない、そのこと自体が差別なのではないか、とか。

これももうね、本当に「ふざけるな」ですよ。この文をメディア関係の方々が読むことは恐らくないだろうけれど、こういう意見を恥ずかしげもなく掲げるジャーナリストども、全員耳元をひっつかんであらん限りの大声で怒鳴りたい。「ふざけるな」と。「調子に乗るな」と。

 

都合のいいことばかり書くよな、本当に。匿名で取材に応じた被害者の家族が「本名を隠すことで亡くなった家族の人生を否定しているのではないかと悩んでいる」とか。明らかに記事全体のトーンが「警察が被害者の氏名を公表しないことでこのような問題が!」みたいな方向に誘導する気満々。卑しい。ここはお得意の両論併記とやらでカウンターの意見もちゃんと載せろよ。マスコミがあることないこと書き立てたせいで暮らしをめちゃくちゃにされた被害者の恨みつらみもきっちり取材して報道しろよ。政治家相手にはいつだって両論併記の腰の引けた報道しかしてないくせに。

 

被害者の氏名がないと成立しない報道なんて絶対にありえない。お涙頂戴の下らないドラマにしたてて悲劇性を強調する必要なんてどこにもない。そんな記事でなければこの事件を伝えることができないような記者ならその無能を恥じて筆を折るべきだ。被害者が障害者だろうが健常者だろうが、クラスの人気者だろうが友達が一人もいない引きこもりだろうが、大企業で将来を嘱望されるエリート社員だろうが交際相手から巻き上げた小遣いでギャンブルに興じるヒモだろうが、そんなことを報じる必要は爪の先ほどもない、と僕は思う。そんなことを「知る権利」なんて誰にもないし、ましてや記者風情が錦の御旗のように掲げる筋合いのものではない。どんな事件でも被害者は匿名で良いのだ。被害者や遺族が自らの意志で名乗るならばもちろんそれは尊重されるべきだけど、それを外野が強いることは許されるべきではない。

 

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僕たちはいつまで、息子くんと一緒に過ごせるだろうか。いつか息子くんが施設に入る日が来るとしたら、それまでに何を息子くんの中に残してあげられるだろうか。本当ならいつまでも息子くんと一緒に過ごしたい。一つ一つ生活に必要なことを教えながら、トレーニングしながら、できないことは何だって助けてあげたい。だけど親である僕たちはいつか、息子くんを遺して逝かなくてはならない日が来る。その時に息子くんを、初めて世界に一人きりで放り出すわけにはいかないのだ。だから僕たちの身体が十分に動くうちに、息子くんにもう一つの世界を、少しでも安心できる世界を用意してあげなくてはならないのだ。そのために僕たちには何ができるだろうか。息子くんだけではない、同じような障害を抱える人たち全てにとって、少しでも安心できる世界を作るために、僕たちには何ができるだろうか。泣いている暇は、ないのだ。